はじめに:AIの進化がもたらす「光」と「影」
GPT-5、Claude 4.5、Gemini 2.5――近年、大規模言語モデル(LLM)は驚異的な速度で進化を遂げ、その性能はますます人間の能力に近づき、一部では凌駕しつつあります。この技術的進歩は、私たちの社会に大きな利益をもたらす可能性を秘めています。しかしその一方で、ある種のディストピア的な未来への懸念も生じさせています。
それが「競争の罠」と呼ばれるリスクです。あらゆる組織が競争に打ち勝つため、AIによる意思決定の効率化を最優先せざるを得なくなる未来。その結果、人間の幸福(Well-being)が後回しにされ、社会の主役が人間からAIへと移ってしまうかもしれません。この危機感は、OpenAIのサム・アルトマンが「AIと人間の協働が効果を発揮する期間はとても短いだろう」と述べたように、技術の最前線で共有されています。この限られた好機を逃せば、人間が主体性を失う未来が訪れる可能性も否定できません。
私たちは、この道を歩むしかないのでしょうか? もし、AIを競争の道具としてではなく、人と人とを繋ぎ、社会を支えるために使うとしたら、どのような未来が描けるでしょう。この記事では、AIを「社会の結び目」として機能させ、人間が主役であり続ける社会を目指す、名古屋工業大学 白松・長澤研究室の先進的な研究とそのビジョンを紹介します。
研究の原点:なぜ「社会の結び目」としてのAIを目指すのか?
現代のテクノロジー、特にSNSは、本来人々を繋ぐためのツールとして設計されました。しかし現実には、「確証バイアス」(自分の信じたい情報ばかり集めてしまう)や「認知的不協和」(自分の考えと矛盾する情報を不快に感じる)といった人間の認知バイアスを増幅させ、かえって社会の分断を生み出す一因となっています。
白松・長澤研究室は、この問題意識を原点としています。同研究室が目指すのは、LLMを基盤としたシステムを、人々を繋ぐ「社会の結び目」として機能させることです。そのAIが持つべき主要な機能は、以下の通りです。
- 多様な立場のペルソナを生成し、議論をシミュレーションする
- その場に足りない観点からの意見を生成し、想像力を補う
- 組織を超えて相補的に補い合う協働・共創の可能性を提案する
この構想の源流は、白松俊教授の博士課程時代に遡ります。当時、土木工学を専攻する学生から「河川流域委員会の議事録を分析し、議論が座長によって誘導されていることを定量的に示せないか」という相談を受けたことが、自然言語処理技術を公共・行政分野の課題解決に応用する研究へと向かうきっかけとなりました。この、公共の議論の複雑さに自然言語処理で挑んだ初期の経験が、単に対立を分析するだけでなく、それを積極的に解決するAIを創るという、より大きな野心の種を蒔いたのです。
研究事例:AIを「社会の結び目」に変える具体的なアプローチ
白松・長澤研究室では、「社会の結び目」というビジョンを具現化するため、多岐にわたる研究プロジェクトを推進しています。ここでは、その具体的なアプローチを3つの側面に分けて紹介します。
対立を協働へ:議論を可視化し、相互理解を促すAI
合意形成の支援は、研究室の重要な柱の一つです。対面で行われる議論の音声をリアルタイムで認識し、課題や解決策といった要素を抽出して構造化、約1〜2分の遅れでディスプレイに表示するシステムを開発しました。
このシステムの最大の特徴は、その場にいないステークホルダー(利害関係者)の視点を持つ「AI仮想市民」を生成し、議論に欠けている新たな観点からの意見を提示できる点です。
2024年12月に行われた評価実験では、このペルソナ機能の効果が検証されました。AIが意見を生成する条件を「ペルソナなし」「毎回異なるペルソナあり」「『博士ちゃん』という一貫したペルソナあり」の3つに分けて比較したところ、「博士ちゃん」を用いた場合に「解決策の検討への有用性」などで統計的に有意な改善が見られました。これは、一貫したペルソナが参加者の親しみやすさや意見の納得感を高める可能性を示唆しています。ただし、研究チームは、この結果が被験者や議題の違いによる影響である可能性も残されていると指摘しており、科学的な誠実さをもって分析を進めています。
さらに、感情的な対立を緩和する研究も進められています。非暴力コミュニケーション(NVC)の理論に基づき、対立する当事者双方から事前にAIが「観察」「感情」「ニーズ」「要求」を傾聴。その上で、対立相手の観点を考慮するよう促すなど、議論にどう参加すべきかアドバイスを与える対話システムを開発しました。このAIとの事前対話が共感の下地を作り、実験では共感のしやすさ、感情の整理、議論の進めやすさといった項目で有意な改善が確認されました。
実践のハードルを下げる:AIとの対話で学ぶ・練習する
「SAGAスマート街なかプロジェクト」や「豊橋新アリーナ問題」といった複雑な市民参加の議論は、専門知識がない市民にとって参加のハードルが高いのが現実です。特に豊橋市の新アリーナ問題では、2025年7月に住民投票が予定されており、市民が争点を理解し、自身の意見を形成する必要性が高まっています。
こうした状況に対し、研究室はAIを練習相手とする「議論練習用の議論シミュレータ」を開発しました。ユーザーはAIが演じる様々な立場の「仮想市民」と対話しながら、争点の背景を学び、議論に参加する練習ができます。対話後には、自身の「議論スキル」がレーダーチャートで評価され、客観的なフィードバックを得ることも可能です。この革新的な取り組みは高く評価され、「アーバンデータチャレンジ2024」のビジネス・プロフェッショナル部門で最優秀賞を受賞しました。
過去から学び、未来へ繋ぐ:行政やコミュニティを支えるAI
研究室のビジョンは、リアルタイムの議論支援に留まらず、健全なコミュニティを支える知識基盤やネットワークの構築にも及びます。
愛知県との実証実験事業「Aichi X Tech」では、過去の膨大な行政文書から「あのときの経緯」を瞬時に探し出し、要約して説明するAIの開発に取り組んでいます。実証実験では、業務知識が少ない職員の作業時間を76〜80%削減するという顕著な成果を上げています。
また、「助け合いマッチング助手」は、地域の支援ネットワーク構築をサポートするシステムです。Web上の公開データから地域の団体や個人の情報を収集し、どのような協働が可能かをAIが分析・提案することで、人と人、組織と組織の新たな繋がりを創出します。
研究から社会実装へ:株式会社ソシアノッターの挑戦
優れた研究成果も、社会で使われなければ意味がない――この「死の谷」を越えるため、研究室は戦略的な一歩を踏み出しました。白松教授と研究室の学生たちは、2024年4月に「株式会社ソシアノッター(Socia Knotter, Inc.)」を共同で設立。学術研究と社会実装を両輪で進める体制を構築したのです。
社名は、ラテン語で「仲間」や「社会的」を意味する "Socia" と、英語で「結び目を作る人」を意味する "Knotter" を組み合わせたもの。「社会の結び目」となるAIを社会実装するという、研究室のビジョンが社名に込められています。
おわりに:人間が主役の未来をAIと共に創る
AIの知能が人間を超えるかもしれない時代において、私たちが目指すべきはAIが支配する社会ではありません。あくまで主役は人間であり、AIはそのサポート役として機能する社会です。白松・長澤研究室の研究は、AIを「競争の道具」ではなく「社会の結び目」と捉え直すことで、その実現可能性を力強く示しています。
白松・長澤研究室に興味を持った学生の皆さんへ
このような人間中心のAI研究に、あなたも参加してみませんか?
以下のような志向を持つ方は、ぜひ研究室の扉を叩いてみてください。
- 人間が主役の社会をサポートする「社会の結び目」になるAIを作りたい人
- 自然言語処理やナレッジグラフの実社会応用に興味がある人
- 人類の合意形成手法や民主主義社会をアップデートするAIを作りたい人
白松・長澤研究室が切り拓く道は、学術的な探求に留まりません。人間中心の協働・共創AIに関する共同研究にご関心のある企業・団体の皆様と共に、AIが真に人類のパートナーとなる未来を築いていくことを目指しています。